解散が決まった石原軍団ですが、惜しまれる声もあるのではないでしょうか。
石原軍団というのは、石原裕次郎が設立した石原プロモーションに所属する俳優の総称で、
1963年に創設されたこの頃に、石原プロモーションに所属していた俳優が気になります。
そこで今回は石原軍団の過去のメンバーと現在に至るまでを調べてみました!
石原軍団の現在のメンバーは?
石原軍団の現在のメンバーは、
渡哲也 昭和46年 石原プロモーション入社
神田正輝 昭和48年 石原プロモーション入社
舘ひろし 昭和58年 2月8日 石原プロモーション入社
言わずと知れた大御所のお三方です。
徳重聡 『21世紀の石原裕次郎を探せ!』グランプリ受賞
宮下裕治『21世紀の石原裕次郎を探せ!』グランプリ受賞
池田努 『21世紀の石原裕次郎を探せ!』グランプリ受賞
金児憲史『21世紀の石原裕次郎を探せ!』グランプリ受賞
皆さん40代ですが若手です。
神田穣 『石原プロ次世代スター発掘オーディション』グランプリ受賞(先月別の事務所へ移籍している)
増本尚 『石原プロ次世代スター発掘オーディション』特別賞受賞
現メンバーで一番若いのは21歳の増本尚さんで、神田穣さん25歳、徳島、池田、宮下、池田さんら4名は40代ですが、石原軍団では若手になるそうです。
渡哲也さんは現在77歳ですから、軍団の歴史を感じますね。
過去の所属メンバー
過去にもそうそうたる俳優陣が石原プロには所属しています。
浅丘ルリ子 1966年入社 石原プロが映画から撤退するのを期に退社。
寺尾聰 もともとミュージシャン。大都会、西部警察、太陽にほえろなどTVシリーズに出演。
石原良純 石原裕次郎の甥。「太陽にほえろ」での愛称はマイコン。
峰竜太 1976年から参加。大都会、西部警察に出演。
まだまだいますが、役者やバラエティなどそれぞれの分野で活躍されている方ばかりです。
渡哲也の存在

出典:石原プロ公式
渡哲也が石原プロモーションに入社する以前、日活で脚光を浴びていた時期があります。
日活への入社が無ければ、石原裕次郎との出会いは無かったのかもしれません。
日活への入社したきっかけは、
大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した
出典:Wikipedia
弟の渡瀬恒彦がきっかけになっていたんです。
渡哲也が日活に入社した時、すでに日活は斜陽に差し掛かっていました。しかしそんな中で、渡は大スターとなっていったのです。
その後、日活は路線への転換することになり、渡哲也は日活を退社することになります。
そして、東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社。
憧れ、尊敬している石原裕次郎を支えようと思ったんでしょうね。
石原裕次郎の思い

出典:PR TIMES
石原プロモーションは、石原裕次郎が日活に所属している1963年に設立されました。
そこには、大手の映画製作会社にはできない作品を作りたいという理念があったのです。
しかし、映画産業が衰退していったこともあり、当時の金額で8億の負債を抱えることになりました。
TVを過小評価し、出演を拒否していた石原裕次郎だったが、「太陽にほえろ」に主演することとなった後、TVが持つ影響力のでかさに気づくことになります。
そして、TVシリーズの「大都会」、「西部警察」を自社で制作、大ヒットさせ、負債を完済した上に莫大な資産を築くきました。
そもそも石原軍団という愛称は、大都会の黒岩軍団、西部警察の大門軍団からきています。
最初は「太陽にほえろ」に嫌々ながら出演していたというのが驚きです。映画に対する思い入れがそうとうあったんでしょうね。
他のプロダクションとは違い、現在も映画製作会社と名乗っている石原プロモーション。ここにも石原裕次郎の思いが受け継がれています。
まとめ
やはり石原軍団といえばTVでのイメージが大きいですが、
映画がまだ娯楽で盛んだったころに石原プロが誕生し、当時は映画製作主体で活動をしていたんです。
になしかし映画が衰退し、TVが活躍の場っていき、俳優も会社も変化せざるをえなかったのでしょう。
石原プロのメンバーも変わっていきましたが、初期の頃から在籍し石原裕次郎を支えてきた渡哲也の存在の大きさは改て実感しました。
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